牛久沼にまつわるお話
牛久沼は龍ケ崎市の西側に位置し、筑波・稲敷台地と猿島・北相馬台地に囲まれ、流れは小貝川につながり、本土地改良区の用水源として長く利用されています。沼面積は6.52キロ平方メートル、平均水深は1〜2mと比較的小さな沖積低地沼で河童伝説、金龍寺の伝説やうなぎで有名な沼です。
沼の周りには龍ケ崎市、つくばみらい市、つくば市、牛久市、取手市が隣接していますが、湖沼面は龍ケ崎市に属しています。
現在の牛久沼は、小規模な漁業のほかは、主に牛久沼土地改良区が取水する農業用水として使われています。また、週末になると多くの釣り人たちで賑わっています。
ここで牛久沼にまつわるお話を紹介します。
牛になった小坊主のお話
昔から「食べてすぐ横になると牛になってしまう」などと言われますが、牛久沼のほとりにある金龍寺には、そんな話の原点ともいわれる伝説が残っています。大食いでなまけものの小坊主が、住職の忠告も聞かずに、毎日ごろごろしながら大食いを続けているうちに、ある日とうとう尻尾が生えて牛になってしまいました。悲観した小坊主は必死に尻尾を持って止める住職を振り切って沼に身を投げてしまいます。 以後、その沼は「牛を食った沼」として、『牛久沼』と呼ばれるようになりました。 なお、今もその尻尾は金龍寺に祭られています。
牛久沼の河童伝説
河童の絵で有名な明治・大正期に活躍した文化人「小川芋銭」の晩年の住居である「雲魚亭」の近くに、『かっぱ松』があります。この松の由来は、牛久沼に住むいたずら好きな河童が畑を荒らしたり子供を溺れさせたりと住民に迷惑をかけていました。そこで、村人たちはこらしめのため、陸で昼寝をしていた河童を捕まえ、沼のほとりに生えていた大きな松の大木にしばりつけました。河童は二度と悪さをしないと泣いて村人に訴えたので哀れに思った村人は河童を沼に帰しました。
それ以来、河童は悪さを止めただけでなく沼の周囲の葦を刈り取るといった村人の手伝いまでするようになりました。改心して約束を守っている河童の心根に勘当した村人は、お礼として「かぴたり餅」を造り沼にそそぐ川へ投げ込みました。
それからは、毎年12月1日に水の安全を祈る行事として餅を投げる習慣になった。
うな丼伝説
現在、牛久沼に沿って通っている国道6号線には複数のうなぎ料理を扱う店があるが、ここが「うな丼」の発祥地であることはあまり知られていません。
むかし、江戸は日本橋の大久保今助さんが、生まれ故郷水戸に向う途中に牛久沼の渡し場にある掛茶屋で好物のうなぎの蒲焼と、どんぶりご飯を頼んだ。しかし、食べようとしたところ「船が出るよー!」と声がかかったので、慌ててどんぶり飯の上に蒲焼の皿をかぶせて船に持ち込んだ。そうして、向岸に着いた今助さんは、土手に腰を下ろして食べたところ! 鰻の蒲焼は熱いご飯に蒸されて柔らかくなり、タレがご飯にほどよく染み込んでいて、これまでに味わったことのない美味しさでした。 今助さんは江戸へ帰る際に再び茶屋により、そのときの話をしてうなぎ丼を作ってもらいました。その後、茶屋でうなぎ丼を売り出したところ、大当たりとなり牛久沼の名物になりました。
これが、『うな丼』のはじまりです。
その後、江戸での今助さんは牛久沼のうな丼の味が忘れられず、芝居見物につきものの重詰の代わりに、熱いご飯の上にうなぎの蒲焼をのせた重箱を取り寄せ、舌鼓をうっていました。これが、『うな重』の始まりです。
以上のような伝説と伝統のある牛久沼から取水している当改良区は、これからも牛久沼の自然 環境をまもり 広く関係機関と連携し、牛久沼に親しむ人々と共に、心を合わせて、地域とともに歩んで生きたいと考えています。